出会いはとりあえず受け入れる
ヨガとの出会いは高校の合宿。必須アクティヴィティだったのです。
そのときの講師の先生が仲の良いクラスメートのお父さんだったことで、合宿後も彼女からヨガの話はよく聞かされていました。お父さんの書いた本もよくもらってたりしていました。
何冊かある著書の中に、ヨガは筋肉や関節だけではなく、脳内のホルモンや神経伝達物質にも影響を及ぼす・・・というようなことが書いてありました。
このことに私は非常に興味をひかれたのです。
継続的にヨガを始めてからは、周に1回、1時間のレッスンを受けていましたが、レッスンが終わりに近づく頃には、笑い出したくてしかたがなくなる、ということが度々ありました。大笑いしたいというのではなくて、自然と顔がほころんで笑顔になるという感じ。 なるほど、本で読んだ快感物質とはこれか!
とおおいに納得していたものです。
始めて2年くらいは、ヨガとは身体を動かすことで脳や身体全体の調子がよくなり活性化するもの、という解釈をしていました。
ところが、次に出会った先生は、身体を動かしているものの、心を穏やかにするだとか不要なものを手放すだとか、心の内面にアプローチするということにも重きを置いていました。ヨガとは、どちらかと言えば身体をターゲットとするものだと思っていたので、この教室で過ごした時間は新鮮でした。
この頃は、ある意味でヨガへの興味がMAXだった頃で、本屋でヨガの本を見つけては買って読むということを繰り返していました。
それらの本は、スワミジと呼ばれるマスター達が書いたものやまだ若い先生方が書いた本と、考え方もスタイルも様々でしたが、いずれにしても本来ヨガとは、気づき、悟り、あるいは心の覆いを取り除きその下にある何者にも影響を受けない本来の自己に至るためのもの、ということです。
最初はこのような壮大なテーマと自分を取り巻く現実が結びつかず、伝説か何かのように捉えていました。
それでも教室に通ううち、少しずつ意識が変化していったのです。
現実の生活にもヨガの入り込む余地はある!そう確信するに至ったのです。
瞑想に本腰を入れ始めたのもこの頃です。
そうして私は、ヨガの精神修養的な側面に強く惹かれる一人となりました。
更に2年ほどが経ち、ヨガのことをもっと深く知りたいと思うようになり、指導者養成コースに入りました。
古典ヨーガの流れをくむラージャヨーガを修行した先生の元での養成コースです。本来ヨガは・・・と言うところからの講義は本当に濃密でした。
最初の出会いが次の出会いを呼び、またその出会いが更なる出会いを呼ぶという幸運が重なり今日まで来ました。最初の出会いがなければ全てがなかったのかもしれません。
人は生きていくうちに様々なものを見聞きすることで経験値が上がっていきます、そうすると過去の経験と無意識のうちに照らし合わせていろいろな判断を下します。
私とヨガの場合は、高校生だったので経験値が少なかったために、結果的に見たら「出会いを受け入れた」形となりました。判断をせずにただただ受け入れたことが功を奏した一例だったと思います。
極端な判断をしないニュートラルな立ち位置でとりあえずは受け入れてみる。
人には沿うてみよ、馬には乗ってみよ、ということかな・・・。